≪小説本文サンプル≫ 俺が煙草を吸い始めたのは高校に入学してしばらくしてからのことだ。
「秋彦様、申し訳ありません」
田中さんが俺の手の煙草の箱を見て慌てて言った。
「田中さん、煙草吸われたんですか?」
たまたま廊下に落ちていたのを拾ったのだが、まさか田中さんの物とは思わず驚いた。
「あ、はい。仕事中は慎んでおりますが、自室におります際に少々……」
田中さんが苦笑しながら言った。
「本当はすっぱり止めてしまえばよいのですが、一度身に付いた悪癖は中々抜けませんで。
体に悪いとは思いながらもこれだけは止められないものですね」
「美味しいんですか煙草って?」
自嘲するような調子が気になって、箱を渡しながら俺は聞いてみた。
「いえ、美味しくないです。ただ、吸うと落ち着く気がするんですよ。最初は背伸びして吸い始めたようなものですが、
気が付いたら手放せなくなってしまっていました。秋彦様は、こんな悪癖身につけないようになさって下さいね」
田中さんは煙草を仕舞うと軽く笑って言った。仕事に戻る背中を見送りながら、俺は箱から一本取り出しておいた煙草をどうしたものかと思った。
田中さんの忠告を無視するようで少々気が咎めたが、結局一本吸ってみることにした。
煙い上に苦い、なるほど田中さんの言う通り全くどこが良いのか分からない。
それでも、クラクラする酩酊感と空に溶け込んでいく紫の煙は悪くない気がした。
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